年間プログラム

2019年09月09日 - キラリ音楽祭矢野誠プロデュースfinal特別企画:矢野誠8時間ロングインタビュー『音楽の中へ』:第二章:壮年・風雲の候《その壱》

■■■1989:矢野誠『百和香(HAKUWAKOU)』

-----ソロ2枚目となる『百和香(HAKUWAKOU)』は松尾芭蕉をモチーフに進められたとのことですが。

最初のソロ・アルバム『インジェクション』を作った時、メロディーが出て来なくなっていることに気がついてすごい危機感を感じたの。やっぱり音楽家が音楽だけで廻していくと、そっちの脳ばかり使い過ぎちゃってメロディーの源泉を枯らしてしまうんじゃないかと思ったんです。だから、そこを取り戻すべく詩歌や物語に糧を求めることにしました。それこそ芭蕉や蕪村を読みながら、奥の細道に沿って旅をするとか。実際に沿ったりはしませんでしたけど、真冬の佐渡とか、真夏の沖縄とか、一番気候のいい時の伊豆半島とか、そういう旅をするようになって。ヤマハのポータサウンドを携えて、鄙びた温泉町にひとりで出向いたりしてね。そういえば、ニール・ラーセンがラーセン=フェイトン・バンドで来日した時、菊池真美のレコーディングで一緒になったんだけど、彼も「それ持っているよ。ギターみたいに使えるから、出先のスケッチに便利だよね」なんて話していたっけ。そんな旅先のある日、温泉宿の番頭さんに呼び止められて、「おたくはひとりだけど、まさか自殺しに来たんじゃないでしょうね?」なんて誤解されたこともある(笑)。

-----それはちょっと切ないやり取りでしたね。

まあね。いろいろ訊いてくるから、「僕はミュージシャンで、曲を書くために旅しているんです」って話して納得してもらって。そこで「花」という曲が出来まして、それは後に友部(正人)君と作ったアルバム『雲のタクシー』に入っているでしょう。初出は広田玲央名の『LEONA』で録音しています。行く先々でスケッチをして、良いメロディーが出てきたら採譜するっていう。そういうやり方に切り替えたらどんどん曲が出来るようになった。ああ大丈夫だ、復活したって。そういうことでも感慨深いアルバムなんですよ。

-----完成までの経緯はどうだったのですか?

まずはメロディーありき。その後に崎南海子(さきなみこ)さんという、亀渕友香さんのファースト・ソロ・アルバムTouch Me, Yuka(74年)のレコーディングで知り合いになった作詞家に歌詞をお願いしました。鎌倉在住の崎さんにネイチャーがテーマであることを伝えて音源を渡してね。そしたら、半年後に来てくださいと。そうした以心伝心の末に詞曲を組み上げながら、丹念にアレンジを施していきました。

亀渕友香『Touch Me, Yuka』

 

-----リズム面での取り組みもいろいろあったようですが。

ドラマーの石川晶のお店が恵比寿にあって、ボタンゴ・ベジール・モンフラン&ココというザイールのパーカッショニストと一緒に演奏しているのを聞きつけて行ってみたの。やはり本当のアフリカン・グルーヴは違ったね。圧倒されて、直ぐに「スタジオでやってくれないか」って声掛けたら、いいよって。「風祭」という曲に参加してもらいました。一方で、当時好きだった打ち込みもそこに絡めてみたりしたんだけど、なかなか溶け込まない。彼等独特の粘り方でやるから結構苦労しましたね。打ち込みと言えば宅録というのがポピュラーになり出した頃でしょう。僕もご多聞に漏れずティアックの8チャンネルとリズム・マシーンの808。今でもブラックのミュージシャンが大好きなヤツ(笑)。周りのみんなもそれ使っていました。

-----なるほど。メロディーを取り戻してからはアイデアも沸き上がってきたと。

そうですね。あと大きな刺激になっていたのは、よみうりランド・イーストで観たキング・サニー・アデの大所帯バンド。2人から始まって最後は30人ぐらいになる時のポリリズムの凄さ。30人になっても団子にならない、透明のままなんだよね。あれを体感してからというもの、リズムに関してはその解明に没頭していく。僕の中でそういうことが始まっていましたから。その対極で、日本や日本人ということへの意識もずっと前からあるので、その辺のアプローチもさらに深めていましたね。例えばただ緩く、すごく緩くスロー・モーションでやると、日本舞踊に近くなるでしょう。刷り足のようになってくる。あ、これだと思ったもの。風雅にして幽玄。日本の芸能は、最初は跳ねていたんだろうけど、やがて鎮静しつつ内なるエネルギーを貯め込んでいく方向へ進んで行ったんじゃないのかな。独説の域を脱していませんけど(笑)。

 

キング・サニー・アデ&ヒズ・アフリカン・ビーツ『シンクロ・システム』

-----リリースへの運びも着実だったのですか?

実は、作り始めた当初は何も決まっていなかったんですよ。もしやオクラのまま固まっちゃうんじゃないかと片隅にはあったけど、RVCでお世話になった相川(知治)さんから本当にいいタイミングでオファーがきたの。創美企画でソロ・アルバム出しませんかって。鎌倉にある竹の庭でミーティングしましたね。そういう意味でも『百和香』というのは、ひとつの転機になったアルバムです。母親が亡くなった頃でもあり、自分が生きている原点みたいなことを考えたりもした。いや、考えるのではなく行き当たるじゃないですか、魂が。そんな思いを込めて、1曲目の「永劫」は母に捧げました。

 

-----その辺りの心情を汲み取った旧知のお仲間が集まっていますね。

それぞれの場面で出会った人たちが一堂に会して、アルバムに生命を吹き込んでくれました。青山(純)君と幸田(実/くじら)君のリズム隊、(鈴木)茂と板倉(文/チャクラ)君のギター、仙波(清彦)君と浜口(茂外也)君のパーカッション、それに僕の鍵盤がベーシックなセクションですね。青山君と板倉君は仙波君のはにわオールスターズでも一緒だから気心知れ渡っているでしょ。シンセ・マニピュレーターは薮原(正史)君。そして曲ごとに、長田和承(オリジナル・ザ・ディラン、レイジー・ヒップ)のスライド・ギター、矢口博康(リアルフィッシュ)のサックス、金子飛鳥のヴァイオリン、先のザイール人のアフロ・ビートと名手を要所に配しながら、5曲の歌物は石川セリとROMYの姉妹、ブレバタの岩沢幸矢君に歌ってもらいました。凝り固まらずにポップな広がりを持てたのは、ひとえに彼等のおかげです。

矢野誠『百和香(HAKUWAKOU)』

 

■■■1994:友部正人&矢野誠『雲のタクシー』 

-----続くアルバム『雲のタクシー』は、友部正人さん作詞・ヴォーカル、矢野さん作曲・編曲というデュエット作になりました。

そうですね、そういうルールでやりました。僕の好きな良い詞で、ポップスを目指したメロディーというのを書いてみたくなってね。そういう歌作りをやってみようと。そこで、NHKで「若いこだま」や「みんなのうた」のディレクターをしていた湊剛さんに、良い詞が書ける人を紹介してもらえないか相談に行きました。そしたら、友部君がいいんじゃないかって。不思議なもので、僕が数年前のアルバム『6月の雨の夜、チルチルミチルは』をプロデュースした友部君をここで紹介されるなんて、ちょっとした奇跡に近い縁だよね。友部君も「いいよ、やってみようよ」って二つ返事で。

 

-----本当に運命的な引き合わせで、それは内容にも反映されているようですね。

運びとしては、僕の曲が出来ると友部君の家へ届けて新しい詞をもらって来たり、待ち合わせ場所を決めて互いにアイデア出し合ったりと、そういう交換会を半年間ぐらいやりましたね。人前で歌ったことのない僕のメロディーで全曲。ライヴのリハーサルもして、渋谷ジャンジャンとかで1回ぐらいやったかな。まあ、リトル・フィートの時と同じで、リスペクトがないと出来ないことですよね。仕事みたいになったら、どこかで綻びますから(笑)。それで、出来上がったところでミディの大蔵君のところへ持って行った。それが『雲のタクシー』。

 

-----音作りもすごく引き締まっていますよね。マーク・ノップラーと組んでいた頃のボブ・ディランとか、やはりスティング辺りを思わせます。

「星のつぶやき」での大村(憲司)君のインプロビゼーション、ものすごく冴えているよね。山木(秀夫)君も土方(隆行)君も、バカボン(鈴木)も窪田(晴男)君も、それに浜口(茂外也)君もみんな同じテンションをキープしているから、僕のピアノもかなり触発されました。ともかく、友部君も僕もそれなりにやってきたわけだから、後で被せるのはやめよう、そのままでミックスしようと決めた。基本一発録りドンカマなしで手直ししていないから、ライヴ感はあると思うよ。

友部正人&矢野誠『雲のタクシー』

 

 

■■■1999:矢野誠『あむ』 

-----『あむ』はソロ・ピアノ・アルバムとなっていますが、それはどういう意図から?

これには伏線があって、パルコ劇場で演劇の音楽をやった時、オーディションで集められた若者の役者が30人ぐらいいたんだけど、公演が終わってから「今度は音楽のワークショップやろうよ」と僕が提案したんです。そしたらみんな残ってくれて、ジャンベとか持って集まってくれたの。リズム・トレーニングからラップ・トレーニングを経て、楽器も教えて最後は24、5人いたかな。そういう大勢のバンドになりまして。そこに、「みんなのうた」のために僕が書いた「ショボクジラ・チビコブラ」(’87年初夏・初回放送~’19年初夏・再放送)で叩いているドイツ人パーカッショニストを呼んで、いろいろ教えてもらいました。7、8年セネガルで修行してきたヤツだったからキープの仕方とか、ポリリズムの組み方とかよく知っていて、そういうノウハウもワークショップに入れてね。

 

-----ソロ・ピアノどころか、アフリカ研究まっしぐらという感じですね(笑)。

まあ、続きがありますから。それで、喜納(昌吉)君とのセレブレーションの時もそうだったけど、ある程度コンセプトが固まるとぐるぐる廻して30回ぐらいやれば様になってくるというか(笑)。それをライヴハウスでやったんですよ。もともと演劇畑の連中だからコントなんかも挟みながら3、4年はやりました。ツアーで各地を回って。じゃあ最後にレコードを作ろうとソニーへ企画を持っていったら通ったんだけど、どういうわけか発売寸前にバンドが解散してしまった。

 

-----このプロジェクトは何年ぐらいのお話ですか?

90年代の前半ですね。サリマノックという名前のバンドで、かなりいいところまで出来上がっていたから作品を出せなかったのは残念だった。ただ、そのノウハウをそのまま忘れてしまうのは惜しいと思って、ピアノに置き換えて作ったのが『あむ』というわけです。だから、ピアノ・ソロでやってはいるものの、サリマノックで培ってきた技巧を踏襲している。言うなれば、僕なりにアフリカのリズムをポップのメロディーと融合させたもの、それが『あむ』のシリーズとなって4枚続きます。またこの頃、『日々の地図』とか谷川俊太郎さんの詩集を結構読んでいて、そのリアリティに感銘を受けていた。そこで僕も、久しぶりに訪ねた生家が駐車場になっていたことや、昔遊んだ川がとても小さかったことなんかを情景として詞にしたためてみたり。そして、そこにメロディーを付けた後、詞を外してインストにするというプロセスを、「ノスタルジー」という曲で踏んだりもしています。確かなリアリティを得たいがために。

 

矢野誠『あむ』

 

■■■2000:矢野誠『あむ~Chorusing』

-----『あむ』シリーズの第2弾はコーラス編ですよね。

そうですね。まず1枚目『あむ』の曲だけのオーストリア・ツアーをリンツやウィーンで3、4か月やったんですよ。音源を向こうに送ったら、音楽大学の教授とかが興味持ってくれましてね。すると、スクール・コンサートなんかの企画を立ち上げるポストにいる人たちだから、直ぐに10か所ぐらい押さえて「いつ来れるのか?」って(笑)、トントン拍子で話が進みました。リンツの新聞の文化欄にもボンッと出ちゃってね。そういう受け止め方するんだと。「ウィーンというところはニューヨークに拠点が移る前の音楽の都だろ?君たちはこういう新しいコンセプトの音楽をどう思うか、それが訊きたくて今ここでやっているんだ」ってスピーチしたら、もうみんなが会いに来てくれましたよ。その合間に、周辺のライヴハウスにもいくつか予定入れてもらって、ソロ演奏してきました。

 

-----新しい試みに対してすごく積極的に反応してくれて、好感触だったと。

その時に、ウィーンのホテルで思いついたんですよ。これを分厚いコーラスでやったらどうなるのかって。同じコンセプトですけど、ピアノじゃなくてコーラスで。それには亀渕友香さんに教えてもらったゴスペルというのがあったんじゃないかな。亀渕さんとは最初のソロ・アルバムからの長い付き合いだから、ゴスペルのあの声の響きがずっと残っていたんだと思います。

 

-----イマジネーションが広がりましたね。

あと、『あむ』では封印していたテンションぽい音も盛り込むことにしました。シンプルな日常性が『あむ』のテーマだったからストレード・コード中心でしたが、ここではもっと幻想的なテンション・コードの方にシフトしてね。ほら、もともと僕はフランス近代音楽やビル・エヴァンス的なコードが大好きなわけだから。そうやって組み上げたのが『あむ~Chorusing』ですね。でも、かなり細かいことやっているので、ライヴでは難しくて出来ない(笑)。そのうち思い余って、小川美潮とか3人ぐらい連れてきたらバッチリやってくれました。やっぱり出来るヤツは出来るんだなって感服しましたね。

 

矢野誠『あむ~Chorusing』

《第二章:壮年・風雲の候《その弐》》へ続く…

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